牧師ご紹介
小林 政英〈牧師〉 |
ごあいさつ
生涯、人を導いたり教えたりする人には決してならないと思っていた。
自らが先生と呼ばれるなら、それは偽善であり欺瞞だと。
人が人を教える、説教する、とんでもない話だと思っていた。
初老近くなって、多くの人と共同生活をする経験をした。
共同生活する中で、2、3ヶ月すると周りの人と話をしても思いが通じていないのに気付いた。同じ言葉を使っても意味が違うのだ。
それで、人はそれぞれが全く価値観の違う世界で生きているのだと知った。その視点に立って、ある牧師の語る言葉を理解しようとした。機関銃撃つように愛を語る。信徒に一向に通じていない。ふと思った。神様の偉大さ素晴らしさを語る当の本人は本当に、その内容を知っているのだろうか。人は、それぞれ育った生活環境が違う。だから、かみ合わず理解出来ないの当然ではないか。特に疎外され疎んじられた人たち、負の環境で育った人たちは壮絶で理解を超えた人生があった。世は包容力があるから皆生きている。世は広く深い。文化とか文明の中で住み慣れると色々な思いをすり込まれる。記憶に残り土台となるものは、それぞれ違うのでかみ合わないのが当然かもしれない。福音を語るならそれらを理解した上で聖霊の助けを得て聖書の解き明かしをする必要があるのではないか。何が本当か自分で確かめる必要があるのではないか。若かりし頃、人生問答をしてイエスキリストの十字架の死のよる贖いと復活をとおして死後の問題を解決をした。そこでネットランド師から洗礼を受けクリスチャンになった。
その後、大学を卒業し警察官になり、捜査は訴訟に勝つための証拠固めが重要であり、検証が大事であることを知るようになった。そこで学んだのは、人は虚栄心が強く良く飾る。ウソを付く。実に言葉に巧みだ。頭の良い人ほどウソが上手い。クリスチャンは聖書信仰のように生きていると思っていたが、生き様においてキリストの香りを放つ者は少ないのを知った。
十字架の贖いの意味と復活悔い改めと永遠の命、何も難しいことはない。
実に簡単明瞭なことだ。自ら心から悔い改め、イエス・キリストを主として受け入れる時、罪赦され永遠の命を得る。死後、神様の前に誰もが審判で立つ時よしとされる。そのように聖書が語っている。愛する人々にそのことを伝えれば良いのだと思い、神学校で学び牧師になった。人の顔色を恐れず、「天国と地獄」を真っ正面から語れる牧師、「イエス・キリストの再臨」を力強く宣べ伝える牧師になると決意した。
机の隅から出て来た、今から12年前の2007年7月発行の「シオンの風」という文集に書いた自分の証を見て驚いた。そこにはゼカリヤ書13章の2節、3節の聖書の言葉に教えられたことが記されていた。
その日、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。
なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから。」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。
人を見る場合、その身なりや行いに重点をおいて判断するな。神様は外見ではなく心を問題にする。人は心にもないことを語る場合、表現に無理が生じるのでギクシャクしおかしくなる。主の名を使ってウソを告げる。主の名を使って人を差別する。油注がれた者として傲慢になり求道者が天の門から入るのを遮断する。牧会者が妙に権威ぶるのもおかしな話ですとの内容であった。
そして2016年3月、牧師になり開拓伝道を始め、改めて教会目標として示された聖書の箇所が、ゼカリヤ書 13章7節から9節でした。
剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。・・万軍の主の御告げ。・・牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。
聖書箇所の節は違うが同じゼカリヤ書13章、時を経っているが示されたことは同じ内容。不思議な思いをした。もしかして、私は、こういうことのためにも召されたのではないかと牧会の決意を新たにする。
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